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三条通について



古代の三条通

794 年、桓武天皇により遷都された平安京の都市づくりは、中国の都市計画に学ぶ規則正しい街がつくられました。
 当時政治都市であった平安京は、位に応じ居住・商いの可能な場所が厳格に定められ、七条大路に接して東西対象に設けられた「東市」「西市」においてのみ商業活動が許されていました。
 平安京は条坊制、つまり碁盤目状の都市区画制度で計画され、東西の大路「条」、南北の「坊」、そして「保」、「町」に分割され、道路と街区が階層的秩序を持っていました。
平安京は、左京を中心に住民が住みこなしました平安京は、左京を中心に住民が住みこなしました (イラストは「京都千二百年 上」から引用)
平安京の景観は、通に面して家の間口が拡がる現在とは異なり、邸宅の塀やそれに寄り添うように建てられた小屋の町並みが並んでいました。
当初は通りに名称はついていませんでしたが、10 世紀後半頃には、住民の通称・呼称による通り名(町口小路・室町小路など)が登場しました。

平安京時代の京都市外図

平安京の東西の主軸をなした三条大路では、貴族の邸宅が並び、当時の道路幅員は、30mもあったそうです。現在の「京の三条まちづくり協議会」の活動エリアは、平安京の左京の端にあたります。
計画的に整備された平安京でしたが、住人により「住みこなし」が進みました。湿潤であった右京は開発が進まず荒れ地化が進んだ結果、左京へと人口は集中し、都市は東へと拡大していきました。徐々に都市の改造が進み、辻子(ずし)が開通しました。
平安京には貴賤を問わず多くの住民がいましたが、背反は流動的であり、その中でも正式に戸籍に登録された住人は「京戸」と呼ばれました。


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中世の三条通

戦国期の京都は、武家や公家の居住地が集中する政治的中心地の上京と、商工業者が主従する経済的中心地としての下京という二つの地域で形成され、非常にコンパクトな小さい都でした。
構で囲まれた集落が結合してつくりあげられた、複合的な都市であった京都では、絵図でもわかるように、「通り」を介在した形でコミュニティが形成されていました。
 コミュニティといっても、現在の町内会のようなものではなく、戦国の世の中で自らの安全・安心を確保するためにのコミュニティ(町組)が強固に結束し、自治を行っていました。端部(四辻)に木戸門を設え、安全を確保のための構(堀や土塁、壁)を築き、夜には交替で見張りが付いていたとされています。
イラストは「京都千二百年 上」から引用イラストは「京都千二百年 上」から引用
 多くのコミュニティでは、明文化されたルール「町式目(町掟)」を有し、日常生活に関わる多様な掟が定められていたり、職業の規制・誘導により同業社街を形成したところもありました。
 このような、通りを介したコミュニティは「両側町」と呼ばれ、現在にもその単位は継承されています。通で囲まれたブロックで町を構成するのではなく、通りを介した両側町で作校正されるコミュニティは、このころから受け継がれ、三条通ももちろん、両側町で構成されています。



近世の三条通

天下統一を果たした秀吉は、京の都市改造に取り組みました。武家町の集約、公家町の整理を行い、洛中に散在していた寺院を集め寺町を形成、正方形状であった町割りを短冊状に改め座の弱体化を進め、公家、寺院、町衆の分離を図りました。さらには当時の市街地全体をお土居と呼ばれる土塁で囲むなど、秀吉の行った大規模な都市改造は、近世の城下町を形成し、現在のまちの姿にも大きな影響を与えることとなります。
三条通の御幸町、富小路、堺町通は秀吉により新たに作られた通りです。
秀吉により架けられた三条大橋は東海道の起点となり、他国の人々は三条通を通って洛中に入ってくるようになりました。
この頃から三条通は近世期のメインストリートとして機能していくのです。

東海道の起点であった三条大橋東海道の起点であった三条大橋

http---www.sanjyo-kyo.jp-cmn-pdf-sanjyoimamukashi.pdf - Adobe Acrobat Pro.jpg現代の三条大橋



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明治に入り、天皇の東京奠都により官・産業が東京に移り、京都の活力低下が懸念されたました。そこで京都では、明治期から大正にかけて、大規模な都市計画事業が展開。水利事業(第二琵琶湖疏水と発電事業)、上水道事業、街路拡張事業と市電敷設事業に注力しました。文化面でも京都の歴史性を内外に示すことを目的として、内国博覧会の誘致、平安遷都1100 年紀年祭の開催、平安神宮を築造などを行いました。
 このように、近代期の京都は、戦略的な都市イメージづくりを展開しました。近世から継承されているコミュニティ(町組)の近代制度へ継承、番組(後の学区)を単位とした町衆のまちづくり(小学校建設等)を展開など、伝統と革新の共存、産官学民の連携を推進した時代でもありました。
1885 年(明治18)に「道路元標」が三条におかれた(当初は三条大橋に設置されたそうですが、現在は三条烏丸にあります)ことからも分かるとおり、三条通は近代期においても京都のメインストリートでした。日本銀行京都支店を初めとする金融機関やメディア関連の会社が集積し、商業・ビジネスストリートを形成していました。当時の最先端の技術を用いた近代建築も多く建てられました。
しかし、これら煉瓦造やコンクリートを用いた建物が集積していたことにより、道路幅員を拡幅することが困難になり、路面電車敷設(1895 年頃から敷設開始)のルートから外れ、次第に京都都心部のメインストリートとしての座から外れていきました。


http---www.sanjyo-kyo.jp-cmn-pdf-sanjyoimamukashi.pdf - Adobe Acrobat Pro.jpg毎日新聞社京都支局 昭和3年(1928)建築

現アートコンプレックス1928現アートコンプレックス1928


現日生三条ビル現日生三条ビル

日本生命京都支社日本生命京都支社 大正3年(1914)竣工 昭和47 年撮影




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昭和 60 年(1985)歴史的景観界隈地区指定、三条通の歴史性と、現在まで利用形態を変えつつ継承されている数多くの近代建築が評価されたことによると考えられます。
最近、京都を紹介する多くのタウン誌に、三条通が掲載されるのは、三条通の歴史性やその遺構、新旧の混在、ヒューマンスケールな空間に魅力がある個性的な通りとして注目していただいていることによります。
もちろん、三条通は現代の商業や産業空間だけでなく、祇園祭還幸祭(7月24 日)では、京都市内で唯一3 基の御輿が通る通りでもあり、商業だけではなく伝統の面においても重要な通りとしての役割も担っています。


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京の三条まちづくり協議会
〒604-8083
京都市中京区三条通柳馬場東入中之町11 西村吉象堂内
Tel:075-221-3955


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